雑記

自分用ブログ

無題

先日、たまたま見た映画の最後の場面が、おそらく僕にとって一生忘れられないものになってしまったようです。自暴自棄になった主人公が恋人を殺し、顔にダイナマイトを巻いて火をつけ、自殺します。彼が死んだのは海岸で、カメラはその爆破を映したのち横へスライドしていきます。そして、青い海に太陽が映し出されたとき、詩が女性の声で流れます。

 

 

 

 また見つかった!

 何が?

 永遠が

 太陽と共に去った

 海が

 

 

 

それから、僕はなぜか、詩の中にあった「永遠(えいえん・とわ)」という言葉に強く惹かれてしまいました。自分が追い求めつづけていたのは永遠なのかもしれないと気づきました。永遠を見つけることが僕のすべてを解決してくれそうな気がしました。僕が抱えるすべての問題の原因の発端が永遠から来ているように思いました。

 

永遠とはきわめて抽象的なもののようですが、実は、僕にとってそれはかつての勉強のモチベーションの一つだったのです。学生時代に、なんで自分は勉強しなくてはいけないのか、いい高校に入っていい大学に入って卒業することに何か意味はあるのか、と考えたことは誰にもあると思います。そんな時、多くの親はそれは幸せのためだといいます。僕の親もそうでした。満足できるほどの収入を得て、家庭を持ち、平穏に暮らしていく。

 

しかし、その幸せは必ず有限です。結局人は死んでしまうのなら、不幸でも、醜くても、どんな生き方をしてもいいのではないかと思っていました。どうにでもなれという投げやり気持ちです。ひねくれた考えです。しかしそれでは勉強に対するやる気は全く起こってきません。このままではまずいと思って、僕が中学生の時に無理やり見つけた理由は以下のようなものでした。

 

「私たち人間がなぜ生きているのか。それは生物学的に言えば、生殖をして子を残すことであり、それ以外にはあるまい。それを繰り返すことで、ホモサピエンスを永遠に地球に生存させることが私たちに課せられた使命なのだ。しかし、私たちは頭が良くなりすぎてしまい、皮肉にも知ってしまったのだ。地球も、太陽系も、永遠にそこには存在しないということを。宇宙さえ、無限に存在しないのかもしれないということを。では、自分の人生の意味とは、新たな発見をして、私たちの子孫が永遠に生きる術を見つけることなのだ。いや、自分でなくてもいいから、誰かの発見のワンピースとして自分がそこにかかわれたらいいんだ。」

 

今振り返ってみればあまりにも拙く、いかにも中学生的な考えです。自分が理系に進もうとしたのはそれが発端なのかもしれません。しかしその時から僕は知らず知らずのうちに心の中で永遠とは何なのだろうかを意識していたのでしょう。

 

ですが、その時に僕が考えた永遠は、当たり前ですが、僕が死んだずっとずっと先に起こる(起こり続ける)もので、自分にはそれが分かりません。人類の歴史が脈々と続くという「状態」でしかそれは感知できないから、一人の人間が感じ取れるものではないです。永遠の存在である何者かが存在したとして、彼が我々を天上からずっと俯瞰してくれない限り分かりません。でも僕は見つけてしまったのです。永遠を。「状態」ではなく、「実態」である永遠を。私たちが「永遠」に姿を変える方法を。

 

先ほども言ったように私たち人間は永遠に存在することなど不可能な有限の存在です。いや、人間以外でもすべてのものは有限であると言ってもいいでしょう。地球上のありとあらゆる<物質>はいずれ朽ち果てます。誰かと話している<時間>、大学生でいる<時間>も有限です。寿命がある以上、どんなに物語的な<人生>も、劇的な<人生>も、味のない<人生>も、醜い<人生>もすべて有限です。私たちがその中で感じる幸せ、絶望、興味、愛…といったあらゆる感情>も有限です。

 

では、無限とは、永遠とはいったい何なのでしょうか。僕は、ある結論に至りました。逆に、なんですべてのものは有限なのだろうと考えてみたのです。するとそれはすぐにわかりました。そこに何ものかがあるからです。それが物質だとしても、心の中のことだとしても、何かが存在するから、それは有限なのです。それならば、そこに何もなければ、無限ではないですか。無であるならば、それは永遠ではないですか。無こそ、永遠に続くのではないですか。

 

そうだとすれば、人間が永遠を手に入れるということは、無を手に入れることと同じだということになります。では、人間はどうやったら無というものをを手に入れられるでしょうか。この、すべてのものが有限の世界で、そもそも無など得られるのでしょうか。そのとき僕ははっと気づいてしまったのです。無とは死であると。人間にとって無があるとすれば、永遠を手に入れられるとすれば、それは死であると。あの映画の最後の場面であの詩が流れた理由は、主人公の彼が自殺とともに永遠を手にしたからに違いないと。


歴史の教科書や先祖の墓石を想像してみればすぐにわかるように、私たち人間の一生は、20〷年生まれ、20〷年死去、などと記されます。でも、20〷年に死んだとき、それがいつまで続くかが書いてあったことを見たことはありません。20〷年から20〷年まで死んでいた、なんて記述はどこにもないはずです。その人はどこまで死んでいるか、なんていう疑問は生まれてくるはずがないです。

 

それはなぜだろうかと考えると、ああ、それは、無である死は永遠に続くからなんだなと思いました。僕の頭の中では「永遠=無=死」という等式がループのように駆け巡っていました。死者は永遠に死んでいるのであり、永遠とは死のことなのです。私たちは死ぬことで、後にはなにも無くなって、永遠になれるのです。なんと素晴らしいことでしょうか。なんと尊いことでしょうか。絶対に手に入らないと思われた永遠が死ぬことによって手に入るのです。私たちは有限から無限になれるのです。

 

このように考えると、人間の最終目標というか、最高のゴールというものは死ぬことであったとわかりました。人間は有限の世界を、永遠を得るために生きているのです。死の永遠を味わうために、今を生きているのです。死こそが本番であり、生とは死の序章に過ぎなかったのです。私たちは死んだときに舞台の幕が開くのです。逆説的ではありますが、死にこそ意味があるのですから、人は死ぬために生きているのです。

 

 

 

永遠が明らかになったその日、僕はバイトに向かうときに乗るいつもの電車に中にいる人々と、駅で降りたときの人通りがいつもとは違って見えました。この人たちは楽しそうに集団で前を向いて歩いています。顔からは微塵も不幸な要素など感じられませんでした。それと比べると自分の姿は明らかにこの街からは浮いているように見えました。すれ違う人に一瞥もくれずに下を向いてただひたすら死んだように歩いていました。


........この人たちは永遠など何一つ分かっていないんだ。僕にはそれが分かった!過去が、今が、未来がが楽しくて何になる!どうせそれらは有限で終わってしまうものなのに!この人たちは生という監獄に閉じ込められてしまっているんだ。でも僕はそこから抜け出せる........