雑記

自分用ブログ

偶然?

先日、東日本大震災で被災した高校生たちを支援する大学生ボランティアの映像を授業で見た。そこには、原発の避難地域に指定され、住み慣れた土地を離れなくてはいけなくなり、勉強も十分にできない彼らの姿があった。大学生ボランティアはそんな学校に派遣され、学習の支援をしていたそうだ。
 
「なんで私たちだけが」「福島ナンバーというだけで洗車もさせてくれない」「避難先で差別にあっている」などという悲痛な言葉が被災した高校生の口から涙ながらに語られた。衝撃だったのは、映像が終わった後に、映っていた女子高生のうちの一人が白血病で亡くなったことが明かされたことである。
 
その映像を見た後に、授業で感じたことを紙に書いてディスカッションしなくてはならなかったが、僕はただ、悲しいという感情しか生まれてこなかった。何も話すことはなかった。自分の人生は自分の手で手繰り寄せたのか?今、自分がここにいるのは必然だったのか?」ということしか考えられなかった。
 
自身のことを振り返ってみると、今までの自分の人生が、自分の力ではどうしようもできなかった出来事で決められている気がした。出身地、親の職業、幼いころの家庭環境、周りにいた友人、といった偶然で自分の人生が決められている気がした。自分の性格とか、本性といった、アイデンティティの根幹をなすものも、そんな偶然の産物で作り上げられた感じがして、自分でつかみ取ったものではないような気がした。
 
今までの人生の転換点となったあらゆる出来事は、自分で生み出したり、自分の手で手繰り寄せたりしたのではなく、ふっと頭の上に浮かんだ漠然とした考えや、他者の思いつきな言葉で決められているような気がした。それはどれも理論的で整然としているものではなく、不安定で突飛であいまいな所から生まれている気がした。そんなあやふやでよくわからないことが、自分の人生を形作っている気がした。

たしかに、高校受験や大学受験に合格するといったことは、自分の努力でつかむものだとは思う。でも、なぜその学校を志望するようになったのか、そもそも将来の夢のきっかけは何によって生まれたか、といったところまでさかのぼって考えると、それは偶然の出来事のように思えてきた。
 
私たちが日々の生活の中で「今日は何を食べよう」「どこに行こう」と決める動機、いや、人生の中でやりたいことを見つけようと思ったり、何かをしようとしてあることを始めようと思ったりする、その動機は、僕の頭の中に突然出てきた思考とか、その時読んでいた本とか、テレビ番組とか、映画のワンシーンとかであって、まったく自分の意識が及ぶ範疇ではなかった。それは本当に意図していない偶然のことだった。自分が、今なぜここにいて、パソコンに向かっているのかを考えたら、それはそんな偶然の積み重ねである気がした。必然ではない気がした。
 
震災の被災者に、それはあなたの運命で受け入れるしかない、という言葉をかけるのは非情だと思う。そんな運命を受け入れられないから苦しんでいるのだし、泣いているのであるでも、これは本当に残酷であるが、僕は、それを運命として受け入れるしかないと思った。震災の発生と原発事故は、彼らの力ではどうしようもできなかった。でも、起こってしまったことは動かしがたい事実である。
 
多分、すべての人間は、自分の力ではどうにもできないところで自分の人生が形作られてしまっているのだと思う。私たちはそんなふうに人生なんてよくわからず生きなくてはならないのだろう。それはうすうす皆が気づいているのではないだろうか。そんな偶然が、被災者のそれが大ごとだっただけで、本質的には変わらないのだと思った。