encounter
当たり前だが、一限の授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。目の前が夢のようだった。でもそれもしだいに快感に感じてきた。昨夜の一瞬を感傷的に思い描いた。同時に堕落した自分の情けなさを恥じた。こうなるはずではなかった。
つなぐ
今年の二月の中旬、高校時代とりわけ仲の良かった友人Mと食事をしに行った。これは僕にとってほかのどんな予定よりも重要なことだった。ほかのあらゆる用事を蹴ってまでも絶対に一緒に行かなくてはならなかった。
ちょうど一年前の同じころ、僕は大学受験のために東京にやってきていた。浪人していたこともあり、普段家族以外の誰かから連絡が来ることはまずなかった。しかし、一月末くらいに高校の別の友人Iから突然ラインが来た。
「受験で東京に来るなら一緒にご飯でもどう?」
ちょうど受験日程の中日だったこともあり、快諾した。そもそも彼に会うのは約一年ぶりだったし、大学に入ってあいつはどんな風になったのかな、と興味も沸いていた。実際の大学生というものに会ってみたい気がした。
国立の滑り止めの私立入試だったが、第一志望に近いくらいの難易度だったし、現役の時には実際落ちていた。Iはそこに現役で合格していた。三学部を受ける予定のうち、二学部の試験が終わり、丸一日が空いていた日の昼に、僕はIに会った。高田馬場のロータリーだった。
僕の目の前に現れたIは見た目が変わっていた。髪の毛は明るく服装も都会的だった。これが大学生なのかとも思った。同時に、この一年間での僕と彼を取り巻く世界の著しい相違を感じざるを得なかった。
二人でビックボックスの中の店に入ってとりとめもない会話をした。でも、それは彼にとって非常に神経を使うことだったはずだ。目の前にはまだ将来のことなど全く分からず、翌日には人生をかけた試験を控え、精神的にゆとりのない受験生がいる。でも自分は大学生という一歩上の立場である。どんな会話をすればいいのだろう。これからの入試のこと、国立の受験校を聞くのも違うし、自らの近況報告をして大学生活を伝えるのも違う。本当に難しかっただろう。
恥ずかしいが、僕はあまりその時どんな話をしたかを覚えていない。でも、それくらい心地よかった。自然な会話ができた。ひさびさに友人に会えてとてもうれしかった。いいリフレッシュになった。明日の試験がなんだかうまくいけそうな気がした。
そろそろ会計をするか、となったときに彼はこんなことを言った。
「今日は俺が出すよ。俺にできることはこれくらいしかないから。お前はお金を稼げていないだろう?」
言葉が出なかった。泣きそうになった。
頑張れという言葉は頑張っている人にかけるべきではない、とよく言われる。だが、浪人中はいやでもその言葉から離れることはできなかった。家族や先生から嫌というほど聞いてきた。僕は特に嫌な気持ちはしなかったが、うれしくもならなかった。結局そんな言葉をかけてくれたところで自分の気持ちなんて全く理解してくれないだろうから。もう大学生となった高校の友人が楽しそうにしているのを尻目に机に向かう心情を。一歩先のことが何一つ決まっていない心情を。常にある模試といつかはやってくる入試の日に向けて張り詰めている心情を。
Iのその言葉で僕は救われた。それが彼なりの僕への励ましだった。
店の外で、ホテルに帰って勉強するから、とIとは別れた。彼は何も言わなかった。とてもあっさりした別れだった。それも彼のさばさばした性格からだった。でもそれは本当にかかがえのない時間だった。
結局、僕はIの大学の後輩となった。個人的には満足した結果であった。しかし、悲しいことが一つあった。僕と一緒に浪人をしていたMが二浪を決定したからである。Mとはこの一年間、つらいときは話をし、予備校の帰りにはいつも一緒にご飯を食べた。
浪人のつらさときつさは痛いほど分かる。一年間でもかなりこたえた。いいたいことは本当にいろいろある。そんな生活をまた一年間繰り返すのか。しかも高校時代の友人はほとんど大学に進学した。たった一人でもう一年間やるのか…。成人式や同窓会にも出れないのか…。非情さにいたたまれなくなった。
二浪が決定してから、僕はMとは全く連絡を取らなかった。こちらは東京にいるし、彼は地元にいる。生きているのかさえもわからなかった。でも心の中で、あいつは元気だろうか、今年こそは受かってほしい、とことあるたびに思っていた。
今年の一月末に僕はMに連絡を入れた。もうすでに全部の段取りは決めていた。一年前のあの時のIのように。
「もし受験で東京に来るようなら一緒にご飯でもどう?」
彼の返事は案外早かった。二つ返事でOKしてくれた。板橋の兄の家に泊まっているというので、池袋で会うことになった。
パルコの前の地上出口で、僕たちは顔を合わせた。Mは全く変わっていなかった。彼は僕をみて「お前も大学生になったな」と言った。ちょっと悲しくなった。
店に入っていろいろ話をした。特に高校時代の思い出話で盛り上がった。
同時に、目の前にいるMを見ていると、彼のこの一年間の苦労がひしひしと伝わってきた。死にたくなったときも何度もあったといった。ラインの友達は全部で12人しかいないともいった。彼の一言一言をかみしめているとちょうど一年前の僕を見ているようだった。
もうそろそろ帰るかとなったとき、僕はこの一年間で、一番言いたかった言葉を、一番言いたかった相手に言った。
「今日は俺が出すよ。俺にできることはこれくらいしかないから。お前はお金を稼げていないだろう?」
偶然?
無題
先日、たまたま見た映画の最後の場面が、おそらく僕にとって一生忘れられないものになってしまったようです。自暴自棄になった主人公が恋人を殺し、顔にダイナマイトを巻いて火をつけ、自殺します。彼が死んだのは海岸で、カメラはその爆破を映したのち横へスライドしていきます。そして、青い海に太陽が映し出されたとき、詩が女性の声で流れます。
また見つかった!
何が?
永遠が
太陽と共に去った
海が
それから、僕はなぜか、詩の中にあった「永遠(えいえん・とわ)」という言葉に強く惹かれてしまいました。自分が追い求めつづけていたのは永遠なのかもしれないと気づきました。永遠を見つけることが僕のすべてを解決してくれそうな気がしました。僕が抱えるすべての問題の原因の発端が永遠から来ているように思いました。
永遠とはきわめて抽象的なもののようですが、実は、僕にとってそれはかつての勉強のモチベーションの一つだったのです。学生時代に、なんで自分は勉強しなくてはいけないのか、いい高校に入っていい大学に入って卒業することに何か意味はあるのか、と考えたことは誰にもあると思います。そんな時、多くの親はそれは幸せのためだといいます。僕の親もそうでした。満足できるほどの収入を得て、家庭を持ち、平穏に暮らしていく。
しかし、その幸せは必ず有限です。結局人は死んでしまうのなら、不幸でも、醜くても、どんな生き方をしてもいいのではないかと思っていました。どうにでもなれという投げやりな気持ちです。ひねくれた考えです。しかしそれでは勉強に対するやる気は全く起こってきません。このままではまずいと思って、僕が中学生の時に無理やり見つけた理由は以下のようなものでした。
「私たち人間がなぜ生きているのか。それは生物学的に言えば、生殖をして子を残すことであり、それ以外にはあるまい。それを繰り返すことで、ホモサピエンスを永遠に地球に生存させることが私たちに課せられた使命なのだ。しかし、私たちは頭が良くなりすぎてしまい、皮肉にも知ってしまったのだ。地球も、太陽系も、永遠にそこには存在しないということを。宇宙さえ、無限に存在しないのかもしれないということを。では、自分の人生の意味とは、新たな発見をして、私たちの子孫が永遠に生きる術を見つけることなのだ。いや、自分でなくてもいいから、誰かの発見のワンピースとして自分がそこにかかわれたらいいんだ。」
今振り返ってみればあまりにも拙く、いかにも中学生的な考えです。自分が理系に進もうとしたのはそれが発端なのかもしれません。しかしその時から僕は知らず知らずのうちに心の中で永遠とは何なのだろうかを意識していたのでしょう。
ですが、その時に僕が考えた永遠は、当たり前ですが、僕が死んだずっとずっと先に起こる(起こり続ける)もので、自分にはそれが分かりません。人類の歴史が脈々と続くという「状態」でしかそれは感知できないから、一人の人間が感じ取れるものではないです。永遠の存在である何者かが存在したとして、彼が我々を天上からずっと俯瞰してくれない限り分かりません。でも僕は見つけてしまったのです。永遠を。「状態」ではなく、「実態」である永遠を。私たちが「永遠」に姿を変える方法を。
先ほども言ったように私たち人間は永遠に存在することなど不可能な有限の存在です。いや、人間以外でもすべてのものは有限であると言ってもいいでしょう。地球上のありとあらゆる<物質>はいずれ朽ち果てます。誰かと話している<時間>、大学生でいる<時間>も有限です。寿命がある以上、どんなに物語的な<人生>も、劇的な<人生>も、味のない<人生>も、醜い<人生>もすべて有限です。私たちがその中で感じる幸せ、絶望、興味、愛…といったあらゆる<感情>も有限です。
では、無限とは、永遠とはいったい何なのでしょうか。僕は、ある結論に至りました。逆に、なんですべてのものは有限なのだろうと考えてみたのです。するとそれはすぐにわかりました。そこに何ものかがあるからです。それが物質だとしても、心の中のことだとしても、何かが存在するから、それは有限なのです。それならば、そこに何もなければ、無限ではないですか。無であるならば、それは永遠ではないですか。無こそ、永遠に続くのではないですか。
そうだとすれば、人間が永遠を手に入れるということは、無を手に入れることと同じだということになります。では、人間はどうやったら無というものをを手に入れられるでしょうか。この、すべてのものが有限の世界で、そもそも無など得られるのでしょうか。そのとき僕ははっと気づいてしまったのです。無とは死であると。人間にとって無があるとすれば、永遠を手に入れられるとすれば、それは死であると。あの映画の最後の場面であの詩が流れた理由は、主人公の彼が自殺とともに永遠を手にしたからに違いないと。
歴史の教科書や先祖の墓石を想像してみればすぐにわかるように、私たち人間の一生は、20〷年生まれ、20〷年死去、などと記されます。でも、20〷年に死んだとき、それがいつまで続くかが書いてあったことを見たことはありません。20〷年から20〷年まで死んでいた、なんて記述はどこにもないはずです。その人はどこまで死んでいるか、なんていう疑問は生まれてくるはずがないです。
それはなぜだろうかと考えると、ああ、それは、無である死は永遠に続くからなんだなと思いました。僕の頭の中では「永遠=無=死」という等式がループのように駆け巡っていました。死者は永遠に死んでいるのであり、永遠とは死のことなのです。私たちは死ぬことで、後にはなにも無くなって、永遠になれるのです。なんと素晴らしいことでしょうか。なんと尊いことでしょうか。絶対に手に入らないと思われた永遠が死ぬことによって手に入るのです。私たちは有限から無限になれるのです。
このように考えると、人間の最終目標というか、最高のゴールというものは死ぬことであったとわかりました。人間は有限の世界を、永遠を得るために生きているのです。死の永遠を味わうために、今を生きているのです。死こそが本番であり、生とは死の序章に過ぎなかったのです。私たちは死んだときに舞台の幕が開くのです。逆説的ではありますが、死にこそ意味があるのですから、人は死ぬために生きているのです。
永遠が明らかになったその日、僕はバイトに向かうときに乗るいつもの電車に中にいる人々と、駅で降りたときの人通りがいつもとは違って見えました。この人たちは楽しそうに集団で前を向いて歩いています。顔からは微塵も不幸な要素など感じられませんでした。それと比べると自分の姿は明らかにこの街からは浮いているように見えました。すれ違う人に一瞥もくれずに下を向いてただひたすら死んだように歩いていました。
........この人たちは永遠など何一つ分かっていないんだ。僕にはそれが分かった!過去が、今が、未来がが楽しくて何になる!どうせそれらは有限で終わってしまうものなのに!この人たちは生という監獄に閉じ込められてしまっているんだ。でも僕はそこから抜け出せる........
幸せ
僕は今年、本当に、心の底から「幸せ」と思えるような光景に二度出会った。
一度目は湯西川温泉だった。旅行の帰りに寄った、湯西川に沿った小さな観光施設は、僕らの車しか駐車場にはなかった。9月初旬、天気は快晴だった。すぐそばに、川を渡るように比較的新しいつり橋がかけられてあった。引き寄せられるようにしてつり橋のほうへ向かったが、渡る人は自分一人しかいなかった。橋の下の渓流には透き通った水が流れていた。岸には小さな石がたくさん転がっていた。一歩踏み出すごとに橋は、揺れた。
そのとき、下のほうで歓声が聞こえた。見ると、数人の保育園の園児たちが先生に連れられて水遊びをしていた。僕は、橋の真ん中からそれを見下ろしていた。
この光景に、不幸になる要素は全くない、と思った。この地で犯罪が起こるはずもなかった。大自然に抱かれて無邪気に遊ぶ子供たち。それを見守る先生たち。その空間は幸福に満ち溢れていた。
二度目は辻堂の海浜公園だった。午前中、快晴の下、11月の太陽がまるで夕方のように低い高度から差していた。木の影は広い青々とした芝生に長く伸びていた。
休日なのに人は少なく、数組の家族連れしかいなかった。ヤシの木にロープを括り付けて大縄跳びをしている家族もいれば、サッカーをしている家族もいた。ある一家はベビーカーを押して歩き、両親は楽しそうに会話していた。僕は、ベンチに座りながらぼーっとその景色を見ていた。
この光景からも、少しの不幸も感じられなかった。少しの闇も感じられなかった。すべてのものに光が当たっていた。どんな犯罪がおこる余地もなく、その空間は幸福に満ち溢れていた。
離れて見ている僕はこの景色の一員となってよいのだろうか。幸せの外にいるものが、この空間に入っていってよいのだろうか、分からなかった。
卒業検定に落ちた
運転免許を持っているすべての人は二つに分けられる。卒業検定に一発で受かった人とそうでない人だ。結論から言うと、僕は後者のほうである。
今年の夏休み、東京から実家に帰省して自動車学校に通った。春休みに第一段階を終わらせていたから、残すは路上教習のみだった。ネットから技能教習の予約をするのだが、夏休みでただでさえ教習所に通う人が多いのに加え、追加料金を払った「短期集中プラン」とか「夏季限定プラン」といった人がもうすでに予約を入れているため、普通のプランで免許を取ろうとする人の予約は非常に取りづらく、一週間に4時間しか乗れないときもあった。
しかし何とか、高速教習、二段階の効果測定、みきわめをクリアし、卒業検定に臨んだ。たしか8月の最後の週のとある平日の午後だった。その日のことは一生忘れることはないだろう。
卒検を受ける車には、自分ともう一人の教習生、指導員の3人が乗り込んだ。事前に渡されたコースには今まで教習で何度も通ってきた道が示されていた。そもそも実家に近い地元の道だし、道路の状況に詳しい自信はあった。検定は僕から始まることになっていたため、運転席に乗り込み、車を検定コースの発着所から発進させた。半クラッチにする左足は震えていた。
その日は、車の台数がいつもよりやけに多かった。いつもなら難なく右折できるのに、対向車が何台も来て、交差点の中に取り残されそうになった。普通にやれば受かるはずなのに、今日は普段と違うぞと思った。今思えば、その時点で僕はすでに焦っていたのだろう。
数分後、僕は住宅街や商店が立ち並ぶ比較的大きな通りを直進していた。教習で何度も、いやこれまでの人生で数えきれないほど通ってきた道である。右左折も進路変更も駐停車もしなくてよい。ただまっすぐ、速度を40kmに守りながら走るだけだ。そんなことを考えていると、横断歩道が前方の視界に入ってきた。青い三角の横断歩道のマークが道路上にもはっきり見えた。そのとき、すぐに横断歩道脇の対向車線の歩道に自転車があるのを発見した。その人はおじさんで、自転車を歩道と平行にして、片足を縁石の上にのせていた。僕は戸惑った。この人は渡る気があるのか。いや、ないのかもしれない。現に列をなした対向車は、全て素通りしている。目線はその自転車にくぎ付けになった。どうしよう。どうしよう……と思ったとき、突然僕の体は前につんのめった。助手席の指導員が補助ブレーキを踏んだからだった。すべてが終わった。検定終了のお知らせである。
【道路交通法第38条】
最終的には補修の次の日の卒業検定に合格して、免許センターでの学科試験も受かり、無事に免許を取得できた。それ以来、自分で車を運転するとき、横断歩道のそばに人がいたら必ず止まるようにしている。多分、今後一生そうするだろう。今では、ブレーキを踏んでくれたあの教官やチャリのおじさんにも感謝している。同じ失敗は二度と繰り返したくないから。でも、逆に自分が歩行者になって横断歩道を渡ろうとするとき、止まってくれる車はやはり少ない。そんな時、素通りする車の運転手を見つめながら「お前も今、卒検に落ちたぞ」とつぶやきたくなってしまう。